李元翼(1547~1634)の字(あざな)公勵、號は梧里、 本貫は全州、諡號は文忠である。朝鮮時代3代の王様․ 太宗李芳遠の後裔である。明宗2年(1547)に生まれ進士試験に合格し、宣祖2年(1569)22才に別試文科に及第し承文院正字を授けられた。以後軍器寺判官、司諌校理、戶曹參議、安州牧使、禮曹判書、右議政を歴任し、宣祖(1567~1608)、光海君(1608~1623)、仁祖(1623~1549)の3代にわたって6回も領議政を勤めた。
宣祖6年(1573)聖節使の質正官として明に行きその名をとどろかせた。宣祖20年(1587)安 州牧使として再任された時糧穀一万余石で饑民を救護した。 宣祖25年(1592)壬辰倭乱が起こった時平安道都巡察使、諸道道体察使になり、日本軍と戦い大きな功を立てた。その功績として宣祖37年(1604)扈聖功臣として完平府院君に封ぜられた。
1608年大同法を施行するようにし農民たちの徵稅負担を減らし、商工業の發達を促進させ国家經濟を潤し、軍兵防守制度を改革し農民の勞役を大きく輕減させた。
宣祖の時代には淸白吏に選ばれ光海君の時代には大妃廃立論に反対し洪川に流配されたが1623年仁祖反正の時赦免され再度領議政の位につき民心收拾に大きく功を立てた。
仁祖12年(1634)88才で亡くなったが死亡後には仁祖の廟廷に配享され文忠という諡號を賜った。
この遺跡地は李元翼が政界引退後晩年を過ごしたところであり、忠賢書院址、京畿道有形文化財161号梧里影宇、京畿道文化財資料90号である顴感堂(鄕土遺跡3号)、及び宗宅、京畿道有形文化財80号である李元翼肖像画がある。墓及び神道碑は京畿道記念物85号に指定された。