代表遺物
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李元翼 扈聖功臣圖像
167.5 × 89.0㎝
李元翼が58歳になった1604年(宣祖37)、壬辰倭乱の当時、宣祖王のお供をし避難した功で扈聖功臣に録勳されたことを記念して製作された肖像である。国に大きな功績を残した功労者にはフンホ(勋号)を降ろしてこれと共にノクフン教書(錄勳敎書)の画像を下賜したが、現在の宗家には扈聖功臣画像だけが伝わっている。2005年に国の文化財宝物第1435号に指定された。これと共にノクフンギョソ(錄勳敎書)と画像(畵像)を下賜したが、現在の終値には湖水功臣画像だけが伝わっている。2005年に国家文化財宝物第1435号に指定された。
李元翼の平壤生祠堂舊藏影幀
67.3 × 93.3㎝
平壌(ピョンヤン)の胥吏(ソリ)が李元翼の業績を称えるために立てられた生祠堂に安置された肖像である。一般的に肖像画には両手を袖に入れる拱手姿勢を取るのと違い、手をさらけ出して右手には扇子を握って左手は冠帶をつかんでいる姿など、異例的な特徴を帯びている。また、長くて白く表現した爪は、通常の影幀ではよく見られないものであり、仏画の高僧眞影で見られる特徴でもある。したがって、この作品は平壌の僧侶画家が胥吏(ソリ)の依頼を受けて描いたものだと推定されており、地方絵師の独特な個性を見せてくれる貴重な作品である。1978年10月に京畿道有形文化財第80号に指定された。
仁祖廟庭配享敎書
88.5 × 364.0㎝
1651年(孝宗2)6月仁祖の廟庭に李元翼を配向するという教書である。仁祖廟庭に配向された功臣のうち李元翼が最初に選定されたという点や配享敎書の内容を通じて李元翼に対する死後の評価がどうだったのか推測できる。2009年10月、京畿道有形文化財第229号に指定された。
癸亥賜杖宴貼, 1623年
48.0 × 35.5㎝
癸亥年(1623、仁祖1)9月6日、李元翼先生が77歳の年で官職から退くと、礼法によって宮中では耆老所で耆老宴を施してくれた。この席では王様がアンソク[几]と杖[杖]を降ろして宴会を催すが、当時参加した賓客たちが交わした祝詩と宴会の場面を描いて入れたシ詩畵帖である。2009年10月、京畿道有形文化財第228号に指定された。
李元翼の遺書, 1630年(仁祖8年)
86.5 × 72.5㎝
李元翼が世を去る4年前の1630年に84歳の年に直接作成した遺書である。遺書の内容は子孫たちの間に友愛を失わないこと、常に質素を強調して、自分の葬儀も風水に拘らず、簡素に行うことを頼んでいて彼の清白吏精神を知ることができる。2009年10月、京畿道有形文化財第230号に指定された。
先祖の家訓にしたがって、王様には忠をもって、親には孝を持って行動し、仁と礼を守り、些細なことで兄弟同士の和睦を失うことなく争いなどがないようにしなさい。また自分の利益ばかり思って人に恨まれるようなことなどがないようにしなさい。
1. 私の葬祭は贅沢ではないようにし、
ただ経帷子だけきさせ、葬地に悩むことなく、
先祖が埋められているときろに埋めること。
2. 葬祭の時は一切、巫女や仏教の行事等をしないように。
3. 地相人は信頼できない。彼らにだまされることなく、
もともと先祖が埋められているところに埋めること。
4. 供え物は贅沢ではなく質素にするように
10皿ぐらいをこえないように。
1603年11月21日
息子ウィーゾンと孫スーヤクへ
書示子孫, 1599年(宣祖32年)
53.0 × 73.0㎝
李元翼が晩年に83歳の年で起居しながら子孫に残した書き物の一つである。彼が生前に重視した風水説にとらわれず、仙山の墓を利用することや兄弟間の財物を貪らないて睦まじく過ごすことを強調した文である。家族を大切にする彼の心をうかがうことができる。2009年10月、京畿道有形文化財第232号に指定された。
父から息子へ、むすこからまごへとその家族の精神は伝えられていくものであるから、生きているあいだは同じ家で一緒に暮らし、死後は同じところに埋めることは当然なことなのである。だから、地相にこだわることはないようにしなさい。
世の中で兄弟の仲が良くないのは大体お金持の場合がそうである。これは財産がその原因であるだろう。おまえたちは徳をもって富を経営するようにしなさい。ただ、農業につとめて飢えないぐらいなら十分なのである。
1599年9月15日
書與孫守約赴延豊縣, 1628年(仁祖6年)
77.0 × 47.0㎝
李元翼が孫スヤク(守約)が延豊(今の忠清北道槐山)に県監で赴任するようになると、牧民官として民を治めるときに留意すべき徳目を要請する文である。李元翼の民を大事にする賢明な牧民官になるための心構えが盛り込まれており、いままでも手本とされている文である。2009年10月、京畿道有形文化財第232号に指定された。
李元翼の孫ス―ヤクに書いた訓戒
おまえの父親は受領の時、清廉をもって治めた。おまえはその父親の息子であるだけに、次のことを明記して家名に損することなどがないように。
1. 世の中を治めるには人を愛するのが一番大切であって、
自分を修めるには自分の欲を捨てるのが一番大切なのである。
2. 世の中の事情をわかってから世の中で成功することがで
きるだろう。
3. 事にのぞんでは、
乱暴や怒りなどを控えて徐々に物事を把握するように。
4. 善者には賞をとらせることを忘れないようにす
ること。また悪者には罰を与え、すぐ忘れること。
5. 利益より弊端をなくすことが優先で、
新しい仕事を計画することより、
もとの仕事を成就させることが優先である。
6. 村の問題を解決するときには老巧な管理とその村の長老たちにきい
てみんなの意見を合わせることができるように努めること。
高慢で自分ばかり正しい思い、
民心から離れるようなことがないように。
7. 百姓を保護することはもちろん、
官属に対するときもあまりきびしくしてはいけない。
8. うべてのことはいつも最善を尽くすこと。
1628年
悼亡, 1604年(宣祖37)
120.0 × 32.0㎝
1604年李元翼が先に世を去った妻、ヨンイルチョンさん(迎日鄭氏)を悼みながら書いた詩である。この詩は輓章に書いたことで葬儀を執り行った後、内容はコピーして保管して燃やすのが慣例だが、李元翼のな手作りなので、特別な意味があると考えられて保存してきたと思われる。李元翼が妻に対する切実な心を読むことができる資料だと評価される。2009年10月、京畿道有形文化財第230号に指定された。
結髮爲夫妻 めおとになりて
于今歲幾閱 いくとしつき
宦遊出四方 官職四方に忙しく
怨曠何多日 ひとり家を守ること幾多か
同室會無幾 つれそい幾ばくもなく
又遘難醫疾 戦乱逢い疾いにかかり
沈迷十年餘 十数年意識混迷し
昧昧恩情節 今分別暗く恩情絶えぬ
賦性本淳撲 天性純朴がゆえ
平生不爲惡 生涯惡いことなさぬ
何辜于彼蒼 天にいかなる罪犯してか
斯人有斯厄 この人こんな不運にあうとは
兵塵奔竄裡 戦乱のさなか幸いに
幸不委溝壑 ほら穴には捨てられず
此日返故山 我やっと故鄕帰ってきたのに
又何傷戚戚 悲しみに胸痛めようとは
幽明兩無憾 幽明に遺憾ないからであろうか
子女俱在側 子息すべて側に揃った
而我病不死 我死なず病に悩まされ
支離存視息 かろうじて息のみする
撫柩送君歸 棺をなでつつそなたを見送る
羨君事乃畢 すべてなし終えたそなたが羨ましい
苦願從此逝 ついて行きたき心のみ強く
久世非所樂 長生きが樂しみにはあらず
泉下倘相隨 もしあの世にてまた相随うならば
業綠當如昨 苦樂の因緣必ずやこの世と同じならん
梧里集
34.1 × 21.3㎝
粛宗31年(1705年), 初刊本を補完して, 改めて刊行した文集
梧里先生集
31.3 × 21.5㎝
李元翼の文集で, 粛宗17年(1691年)に発行した初刊本