仁祖(インジョ)が李元翼先生に下賜した賜宅で、李元翼の清白吏精神を示す代表的な建物であり、朝鮮時代の王が下賜した賜宅のうち、現在唯一保存されているところなので一層意味が深い。グヮンガム(觀感)とは、「見て感じる」という意味で、仁祖が「私が家を下賜する理由は臣民たちがあなたの清白吏の生活の姿勢を見て感じてほしいのである(觀感)」という一節から取ったものである。
<赐第时 上敎>
仁祖9年(1631)正月10日王様が承旨(秘書官)を送り見舞うように命じた。王様の命令を受けて行ってきた承旨に王様が「その住んでいる家はどうであったか」とお尋ねになられた。承旨が答えて申し上げることには「二間の藁葺の家にはどうにか膝を入れることができますが、家の形をととのえておらず、低く挾く倒れかかり雨風をしのぐことができません」と奏した。王様が命令なされるには「宰相になってすでに40年にもなるのに二間の藁葺の家に雨風をしのぐことができないほどであるということはその人柄が清廉潔白で貧しさに甘んじているということであり、古今東西にないこたである。朕が平生尊敬し慕うのは、その功労と徳行だけではないのである。李公の清廉で簡潔な姿勢はすべての官僚が師とあおぎ見習うべきことであるから百姓が少し苦労するのをどうして心配するであろうか年たけた元老を優待するのは当然の道理でありしかもその質素な徳を賞さないわけには行かないのである。京畿道の監司をして正堂を建てさせるようにし戶曹に命じて絹のふとんを賜わしその崇高さをほめ尊ぶようにせよ。」とおおせられた。
同じ月の22日公が上疏してこれを辞退した。これに対し王様がお答えになるには「上疏を見てその至誠を知ったがそうさせることが根拠のないことではないのであり、家一軒を建てることもそう難しいことではない故卿は心安らかに受け入れ辞退してはいけない」とおおせられた。
同じ月の24日京畿監司が王様に公が故鄕を去り辞退し避けようとしていると上疏した。これに対し王様が承旨·李基祚を使いにやり伝えるには「卿は朕のまごころを深く受け入れ辞退してはいけない」とおおせられた。
同じ月の27日二度目の上疏をした。王様がお答えになるには「上疏を見てよくわかった。卿は宰相になって3紀(1期は12年)になるのにその家に堂ひとつない。このように淸廉で質素なとは過去なかったことである。
今回家を建てるようにするのは世の人々を激励することにその意図があるのであるから卿も国のためと思い案心せよ。また卿がこのことで故鄕を去れば朕の心も安らかでなくなるのでこれ以上辭退せずに朕の心からの望みに従うよう努めよ」とおおせられた。
2月2日3度目上疏をした。これに対し王様が「その深いまごころは十分にわかった。朕の意図はすでに伝えたのだからこれ以上辞退してはいけない」とおおせられた。王様がご命令になり引見なさった。公が秦するには「京畿道は国家の根本にあたるところであるのでより多くの心を傾けて保護しなければなりません。このようなときに臣のために家を建てますのは百姓のうらみを受けることになる一つと言えます。」と申し上げた。4月5日王様がおおせられるには「この度家を建てることは百姓をはたらかせることではあるがそれほど大変なことではなくまして百姓は非常に愚かではあるが感心であるから卿のために働くことをいやがり苦しむはずはない。京畿の百姓が今日に至るまで保たれているのも宣恵庁の力に負うところが多いのであるが、その宣恵庁は卿が主張して建立したものであるから百姓も卿のこのような恩恵を感じていることであり卿のためにこの小さな仕事をいやがりはしないはずである。朕がこの仕事をするのは臣民が見て感じるようにするためなのであるから卿はそのように固く辞退せずにそこで住みなさない。」とおおせられた。
5月に正堂が完成したので公もついに辞退することができずその家に入って住んだ。4年後の仁祖12年(1635年)正月29日公は年老い正堂でなくなった。